香川からの上京物語 博報堂ケトル原利彦さん

総務省の調べによると、2017年の一年間に全国各地から「上京」した人の数はおよそ40万人。進学や就職、転職など人によって背景はさまざまですが、不安や緊張の一方で、夢や希望を抱え新しい人生を踏み出すという人は多いのではないでしょうか。香川県出身、博報堂ケトル執行役員の原利彦さんは、京都大学へ進学後、博報堂入社と同時に上京しました。初めての街、初めて出会う人ばかりが周りにいるなかで、さまざまな思いがあったといいます。原さんはどんな「上京ライフ」を送っていたのでしょうか。当時についてお話を伺いました。

いきなり受けた都会の洗礼

———上京1年目、原さんはどんなライフスタイルを送っていましたか?

原さん(以下、敬称略):居場所が何処にもなく、ただただ、もがいていたという毎日でした。まず、同期には東京出身者が多く、70人中僕を含め地方出身者はたったの7人。東京出身者同士がいつの間にか入社前に仲良くなっていたので、関西から出てきた僕には友達はほぼいませんでした。強いていえば、一緒に住んでいたルームメイトくらいですかね。

研修期間の3カ月間だけ寮のような場所に住んでいたんですが、1LDKの部屋で、まるでタコ部屋のような共同生活を3人で送っていたんです。僕は寝袋で寝ていました。

入社直前のことなんですけど、会社から、配属が決まるまで臨時的に暮らす借り上げマンションを、高輪、池尻大橋、北綾瀬の3つから選べって連絡があったんです。東京なんて全然分からなかったんで、アンケート用紙の「どこでも良い」にチェックしたら北綾瀬に住むことになって。そこから当時博報堂があった田町まで1時間以上かけて通っていました。千代田線の乗り方も分からなかったですし、今、思い返してみたらあの頃は辛かったですね。

———さっそく都会の洗礼を受けたと。研修が終わってからは如何でしたか?
原:田町からすぐ行ける、「戸越銀座」という大きな商店街がある街に引っ越したんですよ。これが僕にとって初めての東京一人暮らしだったので、感慨深いものがありましたね。最初に住んだ日の夜とかよく覚えています。

一人暮らしとはいえまったく寂しくはなかったです。よく「ホームシック」なんて言いますけど、それになったことは一度もないです。実際は寂しいんでしょうけど、ずっと誰かといるか寂しいかのどちらかを取るしかないじゃないですか。僕はずっと誰かと一緒にいるのが嫌なので。一人でいいかなって思って。むしろ「コロッケってこんなに美味しいんだなぁ」なんてのびのびと過ごしていました(笑)。

まあ、寂しかったというか、常にもやもや……というか胸の中がざわざわしていましたね。関西から東京に来ると、あまりにもすべてが違いすぎて。全部が格好良く見えたり、全部が自分を受け入れてくれないんじゃないかなという感じがどこかでしていましたね。

気になったらとにかくそれを“書け”

上京当初は友達はほぼいなかったという原さん

———仕事面については如何ですか?
原:仕事は全然できなかったんですよ。一日の目標を「今日は怒られないこと」に設定していたんですけど、一日が終わって振り返って「今日は怒られなかったなぁ」と安堵して(笑)。

役割的には、“ちょっと喋れるバイク便”くらい。得意先や、違う部署にただ、荷物を届けるという。そんなことが2年くらい続きましたね。もちろん部下なんていないですし、自分に自信もないですし、良いお給料もらってるのに心苦しかったことを覚えています。

でも、そのときは夢中で、「大変だった」ってことは後から分かりませんか? 例えば海で溺れているときって、ただ足を動かし続けてるから溺れているって自覚がなくて。その瞬間瞬間は楽しかったですし、「今日は怒られなかった」とか思っていたし、非常にエキサイティングでした。後から微笑ましく思えるときに、初めて「あのとき辛かったな」って思う気がします。

———なるほど。今振り返って大変だったことはありますか?
原:時代的に今はないと思いますけど、一週間に一回、先輩の合コンをセッティングしなければならなかったんですよ(笑)。それが数少ない自分に課せられた仕事なんですが、僕は知り合いが東京にいないんで、合コンのセッティングをするために街中のクラブとかにナンパしに行ったりしたんです。「大変申し訳ございませんが、僕なんかより全然イケメンの人がおごってくれるんで飲み会してくれませんか?」ってことをずーっとやってましたね。あれは、ストレスでした。

でも、当時、街はギャルブームの頃で。ある日、渋谷のギャルを束ねているボスみたいなギャルとたまたま仲良くったんです。その人と仲良くなった瞬間に、自動的に合コンがぼんぼんセッティングできるようになって。これは乗り越えたな、と(笑)。2年くらいこんなことをやってました。

———時代を感じます。仕事ができるようになるために能動的にしたことはありますか?
原:基本的にはないんですが……。恥ずかしいんですがずっと日記を書いていたんですよ 。大学と社会人に入ってしばらくの間。日記を書いて「怒られなかった」ってチェックしながら、自分のやっていた仕事の整理をするというか。

今たぶん交通事故に遭っても、その日記を廃棄するまでは、どんなに大きなケガを負っても家までたどり着く自信があります(笑)。「今日はこれをした」「明日はこれをやる」というようなことを日記でやっていたら怒られなくなりましたね。それを仕事帰りにバーでやっていたんですよ。

今はもう日記は書いてないですけど、書くことで整理できるということを学びました。なので、今でもなるべく書くようにします。書かないとだめですね。

さっきも話しましたが、常に胸の中がざわざわしているんで。このざわざわって何だろうと思って書き出すと、「ざわざわってこれだけなんだ」と。それをクリアしていくとざわざわがとれるみたいな。

僕は勉強会とかには行ってないですし、意識高いことは何もやってないですね。ただ日記を書いていただけです。

———文字を書くことの大事さ、ですね。
原:自分の中でざわざわが現れると、気になることとかがたくさんあるように思ったりするけど、書き出してみると実際は大したことないんです。むしろ数えられるくらい。それが確認できればより過ごしやすくなります。なので心がざわざわする人は、ぜひやってみてほしいなと思います。

自分のサード・プレイスを作れ

今でも気づいたことは何でも書くようにしているという

———仕事には息抜きが必要とよく言いますが、原さんは何か取り組んでいましたか?
原:仕事から帰ると、家の近く、戸越銀座の商店街の定食屋とかでご飯を食べてから帰っていましたね。中華料理屋さんとか遅くまでやっているところで。そこで酒も飲んで。あとは2軒くらい行きつけのバーがあって、そこで仲間ができたりしました。

僕は“まっすぐ家に帰れない病”なんですよ。オンからオフの間にどっかでクールダウンしないといけない。力づくでもどこかに寄って。クールダウンして帰りたかったので、そこで友達を作りたかったわけではないですが。

でもこういうサード・プレイスは作ったほうがいいかもしれないですね。それが人によっては、フットサルサークルとか、フラメンコ習い出したりとか……。そういえば、サルサを習おうかなとか衝動的に思ったことがあったなあ・・・。当時、映画『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』を観たらめっちゃ格好良くて。でも習う場所がバーで、結局飲んでいる方が楽しくなっちゃって(笑)。

———サード・プレイスではクールダウンもできるし、仲間もできる。
原:仕事と家以外に、もう一つコミュニティを持つことは精神衛生上とても良いことだと思います。ただ、家で飲むことはやめたほうがいいとも思っています。切なくなるし、終わりがなくなっちゃうなと。僕は家で飲まないって決めていましたね。あと、お酒を飲んだあと、会社の飲み会があった翌日こそ、会社はちゃんと行った方がいいですね。見ている人は見ていますから。そういう日こそいつもより早く出社した方が格好良いと思いますし。

———やはり仕事においてお酒は大事ですか?
原:そうですね。お酒があったからこそ、仲良くなった知り合いもいますし、広がった人間関係とか仕事先もあると思います。もちろん、思い出したくない記憶もありますが(笑)。

あと、会社の仕事で、「本屋B&B」という本とビールの店を下北沢で運営しているんですけど、お酒には、リアルのビジネスでもお世話になっているので有難いですね。

街散策をして東京を知る

サード・プレイスとして2軒のバーによく足を運んでいたという

———そもそも上京以前、東京にはどんな印象を持っていましたか?
原:地元(香川)が田舎すぎて、東京はファンタジーの世界だと思っていました。僕の地元なんてまだ自動改札になってないみたいですから。実家の最寄駅は、一人の車掌が駅員も兼ねているから、停車した瞬間に猛ダッシュして切符を切って……。それを各駅でやってますから。

そういえば思い出しましたが、一度、小学校のバスケットボールの全国大会で東京を訪れたことがあって、街中でタダでティッシュを配っている人がいたのにはビックリしましたね。何故くれるんだ、あいつらの目的は何なんだ、もらっていいんだろうか、あとから請求されるんじゃないかとか。そんな感じの衝撃はありました。

———原さんが地元にいたとき、または大学生のとき、何かやりたいことはありましたか?
原:それがないんですよ。大学生のときに結局夢を持てず、モラトリアムだったんですよ、ずっと。大学生活がずっと続けばいいなと思っていたくらいです。

今勤めている広告会社はこれこそモラトリアムな気持ちで選びました。例えば、ビール担当になったら、ビール会社に入った気分で働けるし。クルマ担当になったら、クルマ会社に入った気分で働けるし。玉虫色な、モラトリアムな存在に見えたんですよ。今でもその通りに思っていますけど。

広告会社は、やりたいことが決まらない自分が行く場所として、就職先としてはいいなと思っていました。行ったあとにやりたいことを決めればいいなって。その緩さがいいなと思いました。それで内定通知が来て、だんだん東京に行くんだな〜と思ったくらいです。

———上京して変わったこと、新しく始めたことはありますか?
原:遠距離恋愛をしていたんですよ、当時。彼女が京都にいて。先ほども言いましたが、ざわざわしたまま過ごしていると、やっぱり上手くいかなくなって。だんだん疎遠になってしまいましたね。

それと、学生時代からバイクが好きだったので、中型バイクを買いました。上京してから唯一、能動的に動いたことですね。横浜の方へ行ったり埼玉の方へ行ったり。自分の軸足が関東に移った感じがしました。その後に大型免許を取りに行くんですけど……車の免許は未だに持っていません(笑)。

———休日の過ごし方としては、バイクに乗って何処かへ行く、という感じでしたか?
原:あと街をよく散歩しました。渋谷や新宿はメディアでしか聞いたことがなかったので。下北沢、浅草、上野も。休日になるとそのへんを一人で散歩して。「都会だなあ」とか思って。そういえば誰かといた記憶が全然ないですね(笑)。

こんなふうにして1年目は、昼間は働く。言われたことをやり続ける。夜になると週末のためのナンパをしにいく。そしてまた働く。夜になって遅くなるとまっすぐ帰ってきて、自宅近くでご飯を食べて帰って眠る。週末は合コンを開く。土日は街を散歩する。そんなような生活を続けていました。

現実を受け止める強さを持て

休日はほとんど一人で過ごしていたという原さん

———今、社会人1年目、上京1年目の人たちにどんなことを伝えたいですか?
原:最初上京してきたときって、みんなオシャレに見えるし、粋な感じに見えると思うんですけど、でもそれって自転車乗れていないときに自転車乗れている人ってすげーなって思うけど、実際乗れるようになったら大したことないなって気づくと思うんですよ。

自分が上京してきたときも、周りを見てその人ってすごいなって思いましたけど、自分ですごいバイアスをかけちゃっているケースがほとんどだったりします。

あとは、自分のことを他の人は自分が思う以上に見てないよと。自分が思っている以上に、ミスとか間違いは大したことないし、もっとリラックスしてやった方がいいよってことは伝えたいですね。

———それはやはり原さんの経験からでしょうか?
原:そうですね。あと人間関係でも悩んでいる人も多いと思うんですけど、著述家である勝間和代さんの本で『起きていることはすべて正しい』というタイトルの本があるんですよ。実は、勝間和代さんの本自体は読んだことないし、共感したこともないんですけど(笑)、このタイトルだけ、「これだー!」ってビビッとききたんです。

これは僕が思っていることそのまんまなんですが、要はひどい上司がいたり、人間関係が悪くてもそれはどうすることもできないから。それはそれで事実として受け止めて、そのなかで良いことを探すしかないなって思います。

「何でこうなったの」って悲観的に考えるのはもったいないです。与えられたことをやるというか、目の前のことをただやるというか。そっちの方がいいなって僕は思います。

———名言が飛び出しましたね。
原:でもこれ、一発目として大丈夫なのかな(笑)……。適当に足しといてください、いい感じに(笑)。

———足しておきます(笑)。原さん、ありがとうございました!

<プロフィール>
原利彦 はらとしひこ/1975年生まれ、香川県善通寺市出身。博報堂ケトル執行役員。STOVEカンパニー統括プロデューサー。丸亀高校から京都大学へ進学後、1998年、博報堂入社と同時に上京。入社後は営業職、媒体職などを経験し、2009年から博報堂ケトルに 参加。得意とするコンテンツプロデュース力を生かし、さまざまなメディアや「本屋B&B」を運営する。自身も「原カントくん」の名前で、BS12『BOOKSTAND.TV』、渋谷のラジオ『渋谷のほんだな』他、各種メディアに出演中。

インタビュー:菊野理沙
文・構成=小山田滝音

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